京都は千年の都と言われてますが、ストレートに解釈すれば平安時代から江戸時代まで天皇が京都におられたと言うことで、庶民の生活の隅々まで御所の生活様式が影響を広めたとも言えます。町の中心に御所が有ることで無意識のうちに宮中の言葉、作法、ものの見方などを庶民が取り入れ、現在の京都人気質が出来上がったものでしょうね。千年かかって出来上がったものですから良い悪い別にして簡単には全国標準値には戻らないと思えます。
京言葉、京女に「かんにんどっせ」なんて言われた時には、振り上げた拳も解けてしまうようです、その京言葉も基は宮中の女官言葉がルーツだそうです、現代の大企業のOLさん言葉が流行語になって行くようなものでしょう。宮中の女官さんたちは言葉を略して自分たちだけで理解できる独特の言葉を造語したようで、それが庶民には新鮮な響きだったのでしょう。例えば「座布団」は始めに丁寧言葉の「お」を付けて「おざぶ」、「饅頭」は「おまん」、「薄茶」は「おうす」....そんな具合に使ったようです。私は京男ですので.....全く恩恵には恵まれませんが、京女は得ですよね。御所言葉には独特の言い回しが有ったようです一部ご紹介しますと「おかちん」餅、「しろもの」塩、「かべ」豆腐、「こわご」赤飯、「おかき」かき餅、「すもじ」寿司、「おぐし」髪、「およね」米......現在あたりまえに使っている言葉も有ります。
京都人が町の方向を示す「上がる」は北へ、「下がる」は南へ、は当時御所が町の北寄りの中心に有ったため、町中心から北に行くのを「御所に向かって行く」意味で上がる、その逆は下がると使い分けたようです、位のない庶民は御所に昇殿出来るはずは無いのですが、北の方向に行くのは天子さんに近づける「上」感覚だったのでしょう。ちなみに東西方向は、「入る」で表現します。碁盤の目町並みと巧くマッチして場所を示すには町名の表示より、通り名表示のほうが合理的で正確です。例えばデートの待ち合わせ場所で京女から「四条河原町下がった所で...」って言われたら、決してエレベータで地階に下りないでください。
碁盤の目に町を再区画整理して、寺、商店、芝居小屋などを集め整理した人は秀吉でした。秀吉は大阪のイメージが強いですが現在まで残る京都の町造りの最大の功労者は秀吉だと思います。秀吉が京都の町を整理した時、町の周りを土手「御土居」で囲み、京に入る街道口を七つ定めたのは良く知られていますが、「御土居」は北は鷹ケ峯、東は鴨川西岸、西は北野神社、南は現在のJR京都駅1番ホームから東寺南門と総延長約22キロに及びました、御土居の内側を洛中、外を洛外としました。土手の高さはほぼ2階建て屋根の高さで幅も家一軒ほどです、現在残っているのはごく一部だけですが北野神社境内に残っていますので、機会があれば見学して下さい。3月梅の時期は御土居の梅として有名な場所です。
街道口は、現在も地名として、粟田口「東海道」、丹波口「山陰街道」、鞍馬口「鞍馬街道」、大原口「大原街道、別名鯖街道」、などが残っています、観光で近くを通った時は思い出して下さい。京都の旧市街地南北の通りは大小合計165筋、東西は140筋有ります、路地は別として大きい道で斜めの道は私の記憶範囲では後院通り(三条から四条)だけです。地図で見ると大きい町に感じますが、実際に車で廻ると北山、東山、西山に囲まれた小さな盆地ですので、車の流れがスムーズな時は、観光タクシーで予定外の所までも見学出来ますよ。
京都人、町の解析その2
| 武士の文化 |  |
 | 公家の文化 |
東京は武士の文化、大阪は商人の文化とよく言われますが、さしずめ京都は公家の文化が色濃い町なのでしょうか、宮中/お公家さんの雅心を残すと言えば、カッコ良い言い方なのですが別な言い方をすれば「全国標準値」がどうであれ京都人は「我が道を行く」文化なのでしょう。
公家衆は和歌、衣装小物、作庭様式など他家と比べ独創的なモノを善とし、似たモノは悪として他人の真似をしたと見られるのは最大の侮辱だったようです、門跡寺院の曼殊院に見られる独創的な富士の釘かくし、桂塀、仁和寺塀、などと呼ばれる庭園ごとに違う様式の内塀など、果ては簾の網模様を他家と変えるなど「粋」な努力をしたようですが、反面上からの命令、全体のルールなどには無頓着なとこが有るようで、その悪い癖は現代までも続いています、バス停で順番列で並ばず、車で走行割り込みは茶飯事、駐車禁止関係なくどこでも駐車するなど、関東からのお客様によく指摘される事です。武士の文化では戦闘時の集団行動、ルールから外れるものは死を意味しますが、どうも京都ではその逆の行動が多いようです。あまり好きな例えでは無いのですが、東大のレベルは日本一だがノーベル賞の数は京大の方が多い、これも「我が道を行く」京都気質に根付いたものなのでしょうか。
「京都で商売が成功すれば全国どこででも楽に商売出来る」、京都人の腹が読めず、京都人相手には商売がやりにくい時の例えによく使われる比喩です。こんな悪口を言われても京都人はまったく意に介さないようで、「今度の将軍はん、えろう(すごく)いきがったはるけど、何時まで保つやろ」都があった千年の間に幾度も将軍/権力者の栄枯盛衰を目にしてきた京都人にとっては、時の権力者に自分の腹/旗色をハッキリ示す事は次の時代に首が飛ぶのを意味し、一族と家を守るため「自分の腹を見せない」「イエス/ノーをはっきり言わない」これこそが京都千年の間に修得した知恵だったのかもしれません。
時の権力者とは付かず離れず物事を斜めに見る京都人ですが、反面敗れた弱者に対しても公平に評価していたようで、当時としては主家殺しの大悪人「明智光秀」の首が粟田口にさらされた時、街角に「都路に桔梗の花が三日咲き」との紙が張り出されたとのことです、秀吉はんはえろう強よなりはったけど、明智はんもようがんばらはったわ。時は旧暦の6月明智紋の桔梗が爽やかに都に咲いていたのでしょう。